【弁財天信仰・龍神信仰と「ひふみ神示」・「日月神示」】
平成21年9月21日は、十干十二支で、【己巳(つちのとみ)】でした。 各地の「弁財天」のお宮では、【己巳(つちのとみ)】のお祭りを斎行されました。
今年の5月24日の【己巳(つちのとみ)】の月の、【己巳(つちのとみ)】の日には、上野の不忍池の【弁天堂】で、「御神石」を奉献する御神事を斎行しました。
7月23日の【己巳(つちのとみ)】の神日は、京都の「貴船神社」を始め、八瀬の【九頭龍大社】等に御参拝しました。
上野の不忍池の【弁天堂】は、9月21日の【己巳(つちのとみ)】の日が、「大祭」でした。 年に一度の「弁財天像」の御開帳がありました。 私たちも、御参拝しその御尊顔を見ることが出来ました。
その後、浅草の浅草寺の宝蔵門近くの【弁天堂】にも御参拝し、その後、千葉の柏市の【布施弁財天】にも御参拝しました。
浅草の弁財天・布施弁財天・江ノ島の弁財天は、【関東三弁財天】とされています。
浅草の弁財天の側には、とても良いお姿の「お地蔵様」もあります。
【弁財天信仰】は、仏教が渡来する以前から、日本では、海人系の人たちがお祭りしていた「龍神様」・「海神様」・「水神様」が、その信仰の底流にあります。 日本では、古くから「火と水」をお祭りする人たちが定住し、独自の「龍神信仰」を持っていました。 それが、仏教渡来以降、次第に「弁財天信仰」に習合していったのです。 ただ、「信仰」とは「霊脈」・「血脈」の中に存在するものですから、昨今の「龍神様ブーム」も、日本人の中のその様な「霊脈」・「血脈」の「魂の甦り」と感じます。 この「龍神信仰」は、「磐座信仰」、「石神信仰」等と親和性の高い信仰で、いわゆる「国津神系」・出雲系の信仰です。
明治維新以降の「排仏毀釈」以前は、仏教とも穏やかな習合性を有していました。明治維新以降の明治政府の「神道の国教化」以後は、むしろ「邪教」的に取り扱われていた感があります。
「龍神」を記紀の神よりも、「一段下」の存在として取り扱い、出雲系「龍神信仰族」の信仰を「弾圧」する傾向がありました。
大本の神観の中には、国祖国常立大神が「龍体」として顕現するという内容もありますが、ある所では、「龍神は神よりも一段下の存在である」という、神観も提示しています。 これも、「大本第2次弾圧」によって、大本の「出雲系龍神信仰」という「本質」の「修正」を余儀なくされた経緯があると、私は考えています。
その点、「日月神示」は、かつて大本に在籍した日本の「心霊研究」の先駆者の浅野和三郎氏の「神主」(ここでは、鎮魂帰神法における「霊媒」的存在を指しますが)として一時期、「龍神」との神霊的交流をしていた、岡本天明先生に天授されたものですから、この「龍神信仰」と「龍神」の「本質的理解」は、なかなか見るべきものがあります。
「ひふみ神示」・「日月神示」の【龍神】に関する幾つかの神示を参考のために掲載しておきます。
【ひふみ神示・日月神示・第9巻・キの巻・第9帖(266)】(昭和20年3月11日)
【悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ。この神示 世界中に知らすのざ、今迄は大目に見てゐたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来るぞ、世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊であるぞ、親様を泥の海にお住まひ申さすはもったいないぞ、それで天におのぼりなされたのぞ。岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿、この神々様、御手伝ひでこの世のかため致したのであるぞ、元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来んのざぞ、世界つくり固めてから臣民つくりたのであるぞ、何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ。天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ。臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな。守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ。せわしくさしてゐるのざぞ、せわしいのは神の恵みざぞ、今の世にせわしくなかったら臣民くさって了ふぞ、せわしく働けよ。三月十一日、ひつぐの神。】
【ひふみ神示・日月神示・第19巻・まつりの巻・第4帖(408)】(昭和21年8月10日)
【世こしらへてから臣民の種うゑて、臣民作ったのであるぞ。世、こしらへた神々様は「ながもの」の御姿ぞ、今に生き通しぞ。神が見て、これならと云ふミタマに磨けたら、神から直々の守護神つけて、天晴れにしてやるから御用見事に仕上げさすぞ、臣民ばかりでは出来ん、三千世界の大洗濯、誰一人 落したうもない神心、皆揃ふておかげやりたや、喜ぶ顔見たや、遠い近いの区別なし、皆々我が子ぢゃ、可愛い子ぢゃ、早う親の心汲みとれよ。八月十日、一二 。】
【ひふみ神示・日月神示・五十黙示録・第1巻・扶桑の巻・第2帖】(昭和36年5月5日)
【なかとみの ふとのりとこと ふとにのりあぐ。
一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、 (レイ)がもとぢゃ、 一(レイ)がもとぢゃ、結びぢゃ弥栄ぢゃ、よく心得なされよ。世の元、 の始めから一と現われるまでは を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水(一と三)のドロドロ(十 十 )であったぞ、その中に五色五頭の竜神( 〇二ん)が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ、今の人民は竜神( 〇二ん)と申せば、すぐ横を向いて耳をふさぐなれど、マコトのことを知らせねばならん時ざから、ことわけて申してゐるのぞ。竜神( 〇二ん)とは 神(理〇 )であるぞ、五色の竜神とは国常立尊の御現われの一(ヒトツ)であるぞ。 戒律をつくってはならん、戒律がなくてはグニャグニャになると思ふであろうなれども、戒律は下の下の世界、今の人民には必要なれど、いつまでも、そんな首輪はいらんぞ、戒律する宗教は亡びると申してあろうがな。】
註 この御神示中の「〇」は、本来「渦巻き」の記号です。
写真は、上から、上野の弁天堂。浅草の弁天堂。柏市の布施弁天。
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