2009年8月27日木曜日

世の元の真清水湧く所







【世の元の真清水湧く所】

日月神示・ひふみ神示において、「奥山」となる所は、最も重要な神磁場と言える場所です。
この「奥山」である「条件」として、最重要なことが、そこが「世の元の真清水」が湧き出づる地であることです。
この神義的条件を満たさない所に、「奥山」を置くことは日月神示の解釈上有り得ないことなのです。

岡本天明先生、「最後の御神業の地」とされた北伊勢至恩郷は、馬蹄形の山の上にありましたが、水で大変不便をしたそうです。
そこで集った方々の手によって、井戸が掘られました。その作業も困難を極め、なかなか「水脈」に辿り着かなかったと聞いています。それでも苦労の末、ようやく水が出るようになったということです。

しかしその水も、なかなか「清んだ水」にならず、皆が困っていた所、私の言霊の師でもある武市瑞月先生が、『呼び水』をもらいに丹後元伊勢の「籠(この)神社」に参詣しました。
これは恐らく、岡本天明先生の御神示によるものだと解されます。

それは、厳寒の真冬のことだったと聞いています。宮津から「天の橋立」を渡る時も、膝まで雪に埋もれてしまったそうです。
日の暮れかけた頃にようやく辿り着いた籠神社では、現在の宮司の義理の父である、前宮司が、まるで自分が来るのを、待っていてくれた様だったと聞いています。その夜は、暖かい食事を頂き、神社に泊めて頂いたということです。

そして、現在「真名井神社」と呼ばれている籠神社の「奥宮」に行き、当時はその先の「磐座」からこんこんと湧き出ていた「御神水」を頂いたということです。

現在は、真名井神社の奥にあるこの「磐座」は、立ち入り禁止となり入ることは出来ませんが、当時心ある神感者は、この「磐座」の御前まで御参拝し、この「御神水」を頂いて行った様です。


また、現在の真名井神社の脇の御神水は、同所の地下から汲み上げた井戸であると確か聞いています。すでに、「磐座」から湧き出ていた「御神水」は枯れてしまったのではないかと拝察しています。

武市瑞月先生は、その時、前宮司から、「籠(この)神社」にまつわる幾つかの「秘事」を教えられたということです。前宮司は、知る人ぞ知る大変な神感者であり、武市先生は、後年私にその「秘事」について話してくれました。ここでは、その内容は「秘事」に触れますので省略します。
これは、昭和30年代初頭の話です。

その後、武市瑞月先生は、岡本天明先生と同年同月同郷生まれの大本の教主補の出口日出麿氏の所へ行き、岡本天明先生の書簡と共に、この「真清水」を差し上げに行ったそうです。

お付の人が制する間もなく、武市瑞月先生は二階の日出麿氏がいる居室に行き、いつもながらの碁に勤(いそ)しんでいる日出麿氏に、「神様のお使いで参りました。」と言い、持参した手紙を手渡したそうです。
日出麿氏はその手紙を、ぽんと脇に置いたまま、読みもしなかったということです。

そして、「これは籠神社の御神水です。お受け取り下さい」と武市瑞月先生が竹筒に入れた真名井神社の御神水を眼の前に差し出すと、日出麿氏はおもむろにそれを受け取り、奥に活けてあった花の花瓶に、さらさらとその御神水を注いだということでした。

その後、何かお言葉が聞けるかと待っていても、日出麿氏は一向に眼の前の碁盤から眼を離しませんでした。
仕方なく、武市瑞月先生は、「それでは、御用が終りましたので、失礼致します」と言って、部屋の外に出ようとしたその瞬間に、背中からあたかも雷鳴の様に、
「運動場を作れ」という大声が聞えたそうです。

はっとして振り返ると、そこには、普段のおだやかな碁に勤(いそ)しむ日出麿氏の姿があったそうです。武市瑞月先生は、これは、神様がこの「御神水」を喜ばれた験(しるし)に違いないと思い、
「有難うございました。確かにそのお言葉を受け取りました」と言い、日出麿氏の邸宅を後にして、勇躍、北伊勢至恩郷に帰還したと言うことです。

至恩郷で、岡本天明先生にそのお話をすると、大層お喜びになられたそうです。そしてすぐにその「御神水」を掘った井戸に注いだ所、程なく、井戸の水が清み始め、至恩郷の井戸の水がようやく使用出来る様になったとお聞きしています。

このことは、詳しくは今回初めて書きました。

先日の伊豆の大瀬崎の「神池」に行き、細い岬の先端に「清水」のある神池の「不思議」に久しぶりに触れ、また「富士高天原」にも「湧水・真清水」があることを思い出し、この文章を書きました。

「神は真清水のある所に降臨する」

「水」には、「生命の秘儀」の根幹に関わる大切なものがあると感じます。
古来、「火」と「水」の真釣り合う「秘儀」が、神へ至る「至光の道」であったと考えられます。

御神縁を持たれた方々に感謝します。

【参考となる、ひふみ神示・日月神示】

【第19巻・まつりの巻・第六帖】(昭和21年8月13日)

【取られたり取り返したりこねまわし、終りは神の手に甦(よみが)へる。世の元のまし水 湧きに湧く所、やがて奥山移さなならんぞ。神示判る臣民二三分できたなら、神愈々のとどめのさすなり。三界を貫く道ぞ誠なり、誠の道は一つなりけり。神界の誠かくれし今迄の道は誠の道でないぞや。鬼おろち草木動物虫けらも一つにゑらぐ道ぞ誠ぞ。八月十三日、一二 。】

【五十黙示録・第3巻・第十四帖】(昭和36年5月10日)

【目から泥を洗ひ去ると見へてくるぞ、右の目ばかりではならん、左の目の泥も落せよ。泥のついてゐない人民一人もないぞ、泥落すには水がよいぞ、世の元からの真清水で洗ひ落し下されよ、世の元の元の元の真清水結構。


【参考】
【籠神社・天の真名井神社】

http://www.motoise.jp/main/saishin/manai/index.html#a

【伊豆大瀬崎の神石を富士高天原に御奉納】

8月23日に、伊豆半島の沼津市の大瀬崎に行って来ました。

ここは、「伊豆の七不思議」にもなっている、「大瀬崎の神池」があります。

また、「大瀬神社」という神社もあり、この御祭神の名を取り、「引手力命神社(ひきてちからのみことじんじゃ、ひきたぢからのみことじんじゃ)」とも呼ばれています。この神様も、大変神的に興味深い神様です。今日では大瀬神社(おせじんじゃ)と呼ばれることが多く、他に大瀬明神(おせみょうじん)などとも称されています。以下、ウィキペディアを転載します。

【延喜式神名帳に記された「引手力命神社」は当社とされることが多いが、伊豆国の旧田方郡にはもう一社、静岡県伊東市十足(大室山北麓)に引手力男神社(ひきてちからおじんじゃ)がある。実際にどちらが本当の式内社「引手力命神社」であったかは決定的な史料が無いために明らかではなく、今後の更なる調査および研究が待たれる。本項では大瀬崎の引手力命神社について記す。

引手力命神社

祭神は引手力命(ひきたぢからのみこと)とされているが、全国の主な式内社とされる神社でこの名前の神を祀るものは他に見られない。これを古事記や日本書紀にも登場する天手力雄(男)命に比定する説もあるが、一般に天手力雄(男)命が山の神とされているのに対して引手力命は海の守護の神であり、必ずしも定かではない。


同神社の御神木

天然記念物「大瀬崎のビャクシン樹林」のうちの一本で、推定樹齢1,500年である。

由緒

創建時期は不明であるが、一説には白鳳13年(684年)に発生した大地震に伴って海底が突然三百丈余も隆起して「琵琶島(びわじま)」と呼ばれる島が出現したため、同時期の地震で多くの土地が海没した土佐国から神が土地を引いてきたのだ、と考えた人々がここに引手力命を祀ったのが最初、とも言われる。「琵琶島」はやがて砂洲の形成により陸繋島となり大瀬崎となった。

平安時代末期に源為朝と源頼朝、および北条政子は源氏の再興を祈願して当社に弓矢、兜、鏡、太刀などを奉納し、源氏の再興が叶い鎌倉幕府が成立して以降は、多くの武将たちが弓矢や太刀を奉納するようになったとされる。

室町時代には熊野国の水軍の武将であった鈴木繁伴がこの地を支配し(館の跡とみられる遺構がある)祭祀に勤しんだとされるが、その後の度重なる地震や津波で館も奉納品も全て失われた。しかし砂の中からそれらの一部が見つかるに及んで地元の人々がこれらを奉り、何時とはなしに再興されて今日に至っている。

現在の社殿は昭和14年に再建されたものである。伊豆七不思議のひとつである『神池』を境内地に持ち、禊の地として、また海上守護の神として多くの人々の崇敬を集めると共に、駿河湾の対岸に富士山と愛鷹山を望む景勝地として、またダイビングのメッカとしても広く知られている。

海上安全を願う人々が赤い褌(写真右側の赤い布々)を奉納する風習があり、また漁船の進水式に関連してその漁船の縮尺模型を海上安全と豊漁を祈願して奉納する風習もあった。この関係で、漁の様子を描いた絵馬や漁船の木造模型などが多数奉納され、その一部が絵馬奉納殿に展示されている。ただ、1892年(明治25年)に発生した火災により、それ以前に奉納されていた模型は焼失してしまった。2008年現在は、それ以降に奉納された32隻のうち一部が展示されているが、模型の裏には墨書きで奉納者の氏名住所・奉納年が記録されており、明治・大正・昭和初期の駿河湾沿岸の漁船の様式も正確に再現され、また同神社の信仰圏が駿河湾の広い範囲に分布していたことが見出される。】

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E6%89%8B%E5%8A%9B%E5%91%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

この細い岬の突端の【淡水の神池】での御神事を斎行し、三色の神石を二つずつ海岸より頂いて来ました。

これを、富士高天原の「天の岩戸」、「富士三光大社奥宮」に御奉納して頂く様に、富士山瓊瓊杵先生に、お頼みしました。

富士山瓊瓊杵先生によれば、富士市の「浮島」とこの「大瀬崎の神池」はつながっているということでした

これが真実だとしたら、大変興味深いことだと感じます。

帰りに富士宮で、「赤富士」を見ることが出来ました。

【大瀬崎位置】

http://www.google.com/maps?f=q&q=%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%B2%BC%E6%B4%A5%E5%B8%82%E8%A5%BF%E6%B5%A6%E6%B1%9F%E6%A2%A8329+%28%E5%A4%A7%E7%80%AC%E5%B4%8E%29
(グークルマップ)

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=350146.10&l=1384717.34
(国土地理院)

写真は、左が大瀬崎の「神地」。
    中央が、御神木のビャクシンの樹。
    右が、富士宮で見た、「赤富士」。

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