【光食系に生きる!】
北伊勢、京都、滋賀、琵琶湖、静岡の清水市と、御神縁のあるお社(やしろ)に御参拝をしてきました。
最近のいろいろな「人種系」には、とても興味深いものがあります。
草食系。肉食系。植物系。クーガー女系。(アメリカ版)。エコエロ系。
それに例えて言えば、私達の目指すは「光食系」でしょうか。
「光を食(は)む」については、神典「ひふみ神示」の第6巻『日月の巻・第29帖』に次の様に御神示があります。
【日月の巻 第29帖 (202)】(昭和19年11月25日)
【一日一日(ひとひひとひ)みことの世となるぞ。神の事いふよりみことないぞ。物云ふなよ。みこと云ふのぞ。みこと神ざぞ。道ぞ。アぞ。世変るのぞ。何もはげしく引上げぞ。戦も引上げぞ。役に不足申すでないぞ。光食へよ。息ざぞ。素盞鳴尊(スサナルノミコト)まつり呉れよ。急ぐぞ。うなばらとはこのくにぞ。十一月二十五日、一二◎。】
「ひふみ神示」と向き合って、62年の岡本天明御婦人の岡本三典氏が6月23日に御逝去されました。
遺影の前で、彼女は静かに笑みを浮かべていました。
御在所岳の見える桜の樹の下に撒かれた、彼女の遺骨も、きっと桜の樹の成長と共に、新たな生命へと「転換」されると感じました。
自分にどのような「御用」が出来るのか?
とても難しい質問です。
「ひふみ神示」の禅問答の様な御神示を、真正面に受け止めて以来、60有余年を生きられ、享年91歳で亡くなられた岡本三典氏の人生は、「常にお筆と共にあった」と言えると考えます。
「神ながら」の生き方とは、「徹底的に光向き」に生きることでもあります。
「信念」の強い者が、最後には勝つのが「我よし」ならば、「光向き」に徹底的に生き抜く者は、「嬉し嬉し」の立場です。
私は、この「嬉し嬉し」を「嬉し×2」で、ハワイの「アロハ」つまり、「共に生きる」の精神と同一と考えています。
まず、自分が「光嬉し」にならなければ、いや、成り切らなければ、相手を「共に嬉し」へと「光導」することはできないと感じます。
人間は、「光の器」、「光器」です。
まず、自らの「光の器」に「愛と歓喜」を満たすことが、大切と感じます。
一生を「光向き」に生きる「覚悟」があれば、あとは「時」を待つことです。
「光機」到来とでも言いましょうか、神は、人の自我を通じて「神の天意(あい)」を実現させるのです。
ともあれ、徹底的に「ひふみ神示」にこだわって生きていくことを、お勧めします。
そして、徹底的に、「前向き」ならぬ「光向き」に生きていくことをさらにお勧めします。
その先には必ず、「光の苑」・「光の世」があると信じて、今日と言う日を、最大の「神刻(かみとき)」と感じることが出来れば、それは「至光の一瞬」「天意(あい)の中今」であると感じます。
そしてそれは、「魂が自ら光輝く」至福の時の獲得であると感じます。
北伊勢、京都、滋賀、琵琶湖、静岡の清水市と、御神縁のあるお社(やしろ)に御参拝をしてきました。
最近のいろいろな「人種系」には、とても興味深いものがあります。
草食系。肉食系。植物系。クーガー女系。(アメリカ版)。エコエロ系。
それに例えて言えば、私達の目指すは「光食系」でしょうか。
「光を食(は)む」については、神典「ひふみ神示」の第6巻『日月の巻・第29帖』に次の様に御神示があります。
【日月の巻 第29帖 (202)】(昭和19年11月25日)
【一日一日(ひとひひとひ)みことの世となるぞ。神の事いふよりみことないぞ。物云ふなよ。みこと云ふのぞ。みこと神ざぞ。道ぞ。アぞ。世変るのぞ。何もはげしく引上げぞ。戦も引上げぞ。役に不足申すでないぞ。光食へよ。息ざぞ。素盞鳴尊(スサナルノミコト)まつり呉れよ。急ぐぞ。うなばらとはこのくにぞ。十一月二十五日、一二◎。】
「ひふみ神示」と向き合って、62年の岡本天明御婦人の岡本三典氏が6月23日に御逝去されました。
遺影の前で、彼女は静かに笑みを浮かべていました。
御在所岳の見える桜の樹の下に撒かれた、彼女の遺骨も、きっと桜の樹の成長と共に、新たな生命へと「転換」されると感じました。
自分にどのような「御用」が出来るのか?
とても難しい質問です。
「ひふみ神示」の禅問答の様な御神示を、真正面に受け止めて以来、60有余年を生きられ、享年91歳で亡くなられた岡本三典氏の人生は、「常にお筆と共にあった」と言えると考えます。
「神ながら」の生き方とは、「徹底的に光向き」に生きることでもあります。
「信念」の強い者が、最後には勝つのが「我よし」ならば、「光向き」に徹底的に生き抜く者は、「嬉し嬉し」の立場です。
私は、この「嬉し嬉し」を「嬉し×2」で、ハワイの「アロハ」つまり、「共に生きる」の精神と同一と考えています。
まず、自分が「光嬉し」にならなければ、いや、成り切らなければ、相手を「共に嬉し」へと「光導」することはできないと感じます。
人間は、「光の器」、「光器」です。
まず、自らの「光の器」に「愛と歓喜」を満たすことが、大切と感じます。
一生を「光向き」に生きる「覚悟」があれば、あとは「時」を待つことです。
「光機」到来とでも言いましょうか、神は、人の自我を通じて「神の天意(あい)」を実現させるのです。
ともあれ、徹底的に「ひふみ神示」にこだわって生きていくことを、お勧めします。
そして、徹底的に、「前向き」ならぬ「光向き」に生きていくことをさらにお勧めします。
その先には必ず、「光の苑」・「光の世」があると信じて、今日と言う日を、最大の「神刻(かみとき)」と感じることが出来れば、それは「至光の一瞬」「天意(あい)の中今」であると感じます。
そしてそれは、「魂が自ら光輝く」至福の時の獲得であると感じます。
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