【岡本三典氏の訃報に接して】
本日、「ひふみ神示」を天授された、岡本天明先生の御婦人の岡本三典(みのり)御婦人が、6月23日にお亡くなりになられたことを知りました。
私が岡本三典氏と出会ったのは、今から30数年前の昭和52年位のことだと思います。
これも、二年半年亡くなられた、私の言霊の恩師である、武市瑞月先生に連れられて、「至恩郷」に行ったのが初めての出会いでした。
それ以来、いろいろと御交流をさせて頂きました。
この6月23日は、丁度、私が以前から懸案であった、このブログを開始した日でした。
何か、人智を超えた、大きな「動き」を感じます。
出来れば、私は御葬儀に参列したかったのですが、享年91歳で、身の回りの整理をされての眠るが如くの神上がりだったということです。
このお歳で、一人暮らしをされ、朝、いつもお電話を掛ける方が、今日に限って電話がないのを不審に思って、近くの方に御連絡され、御自宅に行かれた所、寝室で眠るが如く息を引き取られておられたということです。死因は、心不全ということだそうです。
享年91歳でした。(大正6年・1917年11月17日生まれ)
岡本天明先生とは、丁度20歳離れていました。
本日、「ひふみ神示」を天授された、岡本天明先生の御婦人の岡本三典(みのり)御婦人が、6月23日にお亡くなりになられたことを知りました。
私が岡本三典氏と出会ったのは、今から30数年前の昭和52年位のことだと思います。
これも、二年半年亡くなられた、私の言霊の恩師である、武市瑞月先生に連れられて、「至恩郷」に行ったのが初めての出会いでした。
それ以来、いろいろと御交流をさせて頂きました。
この6月23日は、丁度、私が以前から懸案であった、このブログを開始した日でした。
何か、人智を超えた、大きな「動き」を感じます。
出来れば、私は御葬儀に参列したかったのですが、享年91歳で、身の回りの整理をされての眠るが如くの神上がりだったということです。
このお歳で、一人暮らしをされ、朝、いつもお電話を掛ける方が、今日に限って電話がないのを不審に思って、近くの方に御連絡され、御自宅に行かれた所、寝室で眠るが如く息を引き取られておられたということです。死因は、心不全ということだそうです。
享年91歳でした。(大正6年・1917年11月17日生まれ)
岡本天明先生とは、丁度20歳離れていました。
本年平成21年(2009年)が、岡本天明先生の47回忌(ひふみ47音に対応)に当たる年であることも、何か深い御神意を感じます。
謹んで、御冥福をお祈り致します。
お写真は、一枚目が、在りし日の岡本三典氏です。至恩郷のはるか彼方に、霊峰「御在所岳」が見えます。中央が、岡本天明先生です。その右後ろに、岡本三典氏がおられます。昭和30年位のお写真だと思います。
2枚目が、平成5年(1993年)の日月神示発祥の地、麻賀多神社の天之日津久神社での第48回6月10日の大祭です。一番右で、「ひふみ祝詞」を唱えていらっしゃるのが、岡本三典氏です。ちなみに、この写真の端に私が写っています。(写真は、いずれも、岡本三典氏提供。)
また、昭和53年頃に、岡本三典氏から、私に頂いた手紙があります。
私の愛用している、「日月神示」裏表紙に大切に貼ってあるものです。
岡田 光興 光拝
謹んで、御冥福をお祈り致します。
お写真は、一枚目が、在りし日の岡本三典氏です。至恩郷のはるか彼方に、霊峰「御在所岳」が見えます。中央が、岡本天明先生です。その右後ろに、岡本三典氏がおられます。昭和30年位のお写真だと思います。
2枚目が、平成5年(1993年)の日月神示発祥の地、麻賀多神社の天之日津久神社での第48回6月10日の大祭です。一番右で、「ひふみ祝詞」を唱えていらっしゃるのが、岡本三典氏です。ちなみに、この写真の端に私が写っています。(写真は、いずれも、岡本三典氏提供。)
また、昭和53年頃に、岡本三典氏から、私に頂いた手紙があります。
私の愛用している、「日月神示」裏表紙に大切に貼ってあるものです。
岡田 光興 光拝
謹んで御冥福をお祈り致します。
返信削除岡田様ミクシィの方にてメッセージを入れておきます。
宜しくお願い致します。
失礼致します。拝
82さん。
返信削除コメントを有難うございます。
ミクシィのメッセージは、拝見しました。