【想念の浄化】・【潔斎】 と日月神示
【潔斎】に関しましては、【ひふみ神示】の御神示を是非、繰り返しお読み下さい。出来れば、【ひふみ神示】のこの帖は、是非【暗記】して頂きたいものです。
【青葉の巻 第03帖 (472)】(昭和22年5月12日)
『ひかり教会の教旨 書き知らすぞ、人民その時、所に通用する様にして説いて知らせよ。
【教旨】
天地(てんち)不二、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不二(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、未、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。
次に信者の実践のこと書き知らすぞ。
【三大実践主義】
弥栄実践
祓実践
まつり実践
大宇宙の弥栄生成化育は寸時も休むことなく進められてゐるのざぞ、弥栄が神の御意志ざぞ、神の働きざぞ、弥栄は実践ざぞ。人としては其の刹那々々に弥栄を思ひ、弥栄を実践して行かねばならんのざぞ。宇宙の総ては(マツリ)となってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ。天地(あめつち)の大祓ひと呼応して国の潔斎、人の潔斎、祓ひ清めせねばならんのざぞ、与へられた使命を果たすには潔斎せねばならんのざぞ。かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる、の五つのはたらきを正しく発揮して、みそぎ祓を実践せねばならんのであるぞ。役員よきにして今の世に、よき様に説いて聞かして、先づ七七、四十九人、三百四十三人、二千四百 一人の信者早うつくれよ、信者は光ぞ、それが出来たら足場出来るのざぞ。産土の神様 祀りたら、信者出来たら、国魂の神様 祀れよ、次に大国魂の神様 祀れよ、世光来るぞ。五月十二日、ひつ九のかミ。』
【潔斎】に関してですが、【ひふみ神示】の言う【めぐり】を取ること、と考えても良いと思います。
ただ、これも、宇宙律としての「めぐり」は、単に「循環性」を表しますが、「ひふみ神示」では、これが、「魂にこびりついた穢れとか垢」とも言えるものとしての神義が強くなっています。
そして、もう一つの【宇宙の三大黄金律】の【ひとしさ】は、【同質結集】とも言われているもので、【同じ想念や魂の傾向性を持つ者は、集い会う傾向性がある】という、人間関係の法則性にも、帰結していきます。
私は、この【宇宙の三大黄金律】(めぐり・ひとしさ・かかわり)と【ひふみ神示】の【三大実践則】(祓い・祭り・弥栄)を次の様に構図で捉えています。
1,【めぐり】→【祓い】(潔斎・想念の浄化)
2,【ひとしさ】→【祭り】(共通性・共有性、共感性の認識)
3,【かかわり】→【弥栄(いやさか・やさか)】(生成化育・進展性・動的経綸観)
私は、【想念の浄化】と【潔斎】を、ほぼ「同義」に考えています。
例えば、霊能者が、「霊がいる」と言って、ある方に憑いている未浄化の霊を、その方から、取り除いた(いわゆる除霊)時、その霊は、何処に行くのでしょうか?その霊が、「霊団」となり、いろいろと外的事象に影響を及ぼすというのが、大本系、特に世界救世教や、真光系神学の考えです。その中には、確かに真理が含まれています。
さらに、自ら発した「怒り・おそれ・悔やみ・悲しみ」等の「想念」もそれが、外的事象に多大に影響を与えるという「想念の現象化・顕在化」という問題もあります。
世界救世教の岡田茂吉師などは、「天変地異は、人間の想念の曇りが惹き起こす」とまで言っています。
ですから、私たちは自己に内在する「過去・現在・未来」の中で、「現在の想念」を正し、さらに「過去の想念」の放出によって、現象化しつつある外的事象に対し、「スの極光」と自己のつながりを持ち続け、その顕在化への阻止をすることが肝要です。
さらに、自己に【多次元的】に内在する、御先祖関係の罪穢れも、現在を生きる私たちの「真心」によって、「浄化」する方向性が不可欠となってきます。
【潔斎】という言葉の中にある神道的な玄義を、私は、人間は、「光の入れ物」即ち【光器】であるという視座から捉えています。
即ち、人間が【光の器】であるためには、常に自己の「内側」即ち、心や意識を磨き続けていなければならない、と考えます。それが【潔斎】の意識光学的の「光義」です。
そのための方法論は、すでにこの地上に降ろされているものの中で、最も「効果的」なものを用いるべしというのが、私の考えです。
それは、他人に依存するものではいけません。また、誰でも出来るものでなくてはなりません。また、未浄化霊一体に付き、何十万、何百万などという「御供養ビジネス」の餌食になるような法外なものでもいけません。
すると、大体現在利用出来るその方法論は限定されて来ます。
岡本天明先生は、自らの【大奥山】を、代々木、麻賀多、岐阜、北伊勢と「進展」させて、常に「人の中」にあり、「人との交わり」の中で、神様の動きを感じ、御神示を天授されていました。
岡本天明先生は、常に、「御神業」としての人生の中を歩いて来られたということを御認識下さい。その辺りの「厳しさ」の認識が、現実に岡本天明先生を知る方に直接接していた私たちと、そのような御経験のない方たちとの、大きな違いかも知れません。
この世は、常に【相関性】【相対性】の中にあります。自己を絶対視しないことが、人間にとっての一つの大きな「救済」でもあります。「休む」時は「休めば良い」というのが、神様の御心です。その意味で、ゆっくりとお休みになるべき人は、心ゆくまで心と体を休ませて頂きたいと思います。
ちなみに、岡本天明先生は、亡くなる直前まで、【ひふみ神示】の第1訳の「校正」をやっておられました。それは、その当時、お側に付いておられた方に直接お聞きしています。その方も亡くなられましたが。
そして、私の師である武市瑞月先生も、病床のベッドに【ひふみ神示の御経綸の解明】の原稿用紙を持ち込んで、原稿をお書きになっていました。
私は、その様に先覚者たちの志を継いで、常に「前向き」そして「神向き」さらには「光向き」で生きてゆきたいと思うです。
そこに存在する、「霊現交流者」としての「厳しさ」を感じて頂きたいと思います。
【想念の浄化】もしくは【潔斎】の方法論は、あくまで【相対的】です。
究極は、スの神様の「極光」への【遡光性】の中にこそ、存在します。
【想念の浄化】さらには【潔斎】の方法論は、幾つも知っていた方が良い、というのが、私の持論です。
【光の玉手箱】には、まだまだ「未公開」の「光義」を持ついろいろな「光の御業(みわざ)」が胎蔵されていることを、御承知頂きたいと思います。
【絶対はこの現界にはない】この宇宙律を、一つここで確認しておきたいと思います。
以上、少し難しいかもしれませんが、これを理解してから、「想念の浄化」や「潔斎」に励まれると、一段とそのスピードが速くなって、「浄化」の程度も深くなってくると思います。
【潔斎】に関しましては、【ひふみ神示】の御神示を是非、繰り返しお読み下さい。出来れば、【ひふみ神示】のこの帖は、是非【暗記】して頂きたいものです。
【青葉の巻 第03帖 (472)】(昭和22年5月12日)
『ひかり教会の教旨 書き知らすぞ、人民その時、所に通用する様にして説いて知らせよ。
【教旨】
天地(てんち)不二、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不二(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、未、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。
次に信者の実践のこと書き知らすぞ。
【三大実践主義】
弥栄実践
祓実践
まつり実践
大宇宙の弥栄生成化育は寸時も休むことなく進められてゐるのざぞ、弥栄が神の御意志ざぞ、神の働きざぞ、弥栄は実践ざぞ。人としては其の刹那々々に弥栄を思ひ、弥栄を実践して行かねばならんのざぞ。宇宙の総ては(マツリ)となってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ。天地(あめつち)の大祓ひと呼応して国の潔斎、人の潔斎、祓ひ清めせねばならんのざぞ、与へられた使命を果たすには潔斎せねばならんのざぞ。かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる、の五つのはたらきを正しく発揮して、みそぎ祓を実践せねばならんのであるぞ。役員よきにして今の世に、よき様に説いて聞かして、先づ七七、四十九人、三百四十三人、二千四百 一人の信者早うつくれよ、信者は光ぞ、それが出来たら足場出来るのざぞ。産土の神様 祀りたら、信者出来たら、国魂の神様 祀れよ、次に大国魂の神様 祀れよ、世光来るぞ。五月十二日、ひつ九のかミ。』
【潔斎】に関してですが、【ひふみ神示】の言う【めぐり】を取ること、と考えても良いと思います。
ただ、これも、宇宙律としての「めぐり」は、単に「循環性」を表しますが、「ひふみ神示」では、これが、「魂にこびりついた穢れとか垢」とも言えるものとしての神義が強くなっています。
そして、もう一つの【宇宙の三大黄金律】の【ひとしさ】は、【同質結集】とも言われているもので、【同じ想念や魂の傾向性を持つ者は、集い会う傾向性がある】という、人間関係の法則性にも、帰結していきます。
私は、この【宇宙の三大黄金律】(めぐり・ひとしさ・かかわり)と【ひふみ神示】の【三大実践則】(祓い・祭り・弥栄)を次の様に構図で捉えています。
1,【めぐり】→【祓い】(潔斎・想念の浄化)
2,【ひとしさ】→【祭り】(共通性・共有性、共感性の認識)
3,【かかわり】→【弥栄(いやさか・やさか)】(生成化育・進展性・動的経綸観)
私は、【想念の浄化】と【潔斎】を、ほぼ「同義」に考えています。
例えば、霊能者が、「霊がいる」と言って、ある方に憑いている未浄化の霊を、その方から、取り除いた(いわゆる除霊)時、その霊は、何処に行くのでしょうか?その霊が、「霊団」となり、いろいろと外的事象に影響を及ぼすというのが、大本系、特に世界救世教や、真光系神学の考えです。その中には、確かに真理が含まれています。
さらに、自ら発した「怒り・おそれ・悔やみ・悲しみ」等の「想念」もそれが、外的事象に多大に影響を与えるという「想念の現象化・顕在化」という問題もあります。
世界救世教の岡田茂吉師などは、「天変地異は、人間の想念の曇りが惹き起こす」とまで言っています。
ですから、私たちは自己に内在する「過去・現在・未来」の中で、「現在の想念」を正し、さらに「過去の想念」の放出によって、現象化しつつある外的事象に対し、「スの極光」と自己のつながりを持ち続け、その顕在化への阻止をすることが肝要です。
さらに、自己に【多次元的】に内在する、御先祖関係の罪穢れも、現在を生きる私たちの「真心」によって、「浄化」する方向性が不可欠となってきます。
【潔斎】という言葉の中にある神道的な玄義を、私は、人間は、「光の入れ物」即ち【光器】であるという視座から捉えています。
即ち、人間が【光の器】であるためには、常に自己の「内側」即ち、心や意識を磨き続けていなければならない、と考えます。それが【潔斎】の意識光学的の「光義」です。
そのための方法論は、すでにこの地上に降ろされているものの中で、最も「効果的」なものを用いるべしというのが、私の考えです。
それは、他人に依存するものではいけません。また、誰でも出来るものでなくてはなりません。また、未浄化霊一体に付き、何十万、何百万などという「御供養ビジネス」の餌食になるような法外なものでもいけません。
すると、大体現在利用出来るその方法論は限定されて来ます。
岡本天明先生は、自らの【大奥山】を、代々木、麻賀多、岐阜、北伊勢と「進展」させて、常に「人の中」にあり、「人との交わり」の中で、神様の動きを感じ、御神示を天授されていました。
岡本天明先生は、常に、「御神業」としての人生の中を歩いて来られたということを御認識下さい。その辺りの「厳しさ」の認識が、現実に岡本天明先生を知る方に直接接していた私たちと、そのような御経験のない方たちとの、大きな違いかも知れません。
この世は、常に【相関性】【相対性】の中にあります。自己を絶対視しないことが、人間にとっての一つの大きな「救済」でもあります。「休む」時は「休めば良い」というのが、神様の御心です。その意味で、ゆっくりとお休みになるべき人は、心ゆくまで心と体を休ませて頂きたいと思います。
ちなみに、岡本天明先生は、亡くなる直前まで、【ひふみ神示】の第1訳の「校正」をやっておられました。それは、その当時、お側に付いておられた方に直接お聞きしています。その方も亡くなられましたが。
そして、私の師である武市瑞月先生も、病床のベッドに【ひふみ神示の御経綸の解明】の原稿用紙を持ち込んで、原稿をお書きになっていました。
私は、その様に先覚者たちの志を継いで、常に「前向き」そして「神向き」さらには「光向き」で生きてゆきたいと思うです。
そこに存在する、「霊現交流者」としての「厳しさ」を感じて頂きたいと思います。
【想念の浄化】もしくは【潔斎】の方法論は、あくまで【相対的】です。
究極は、スの神様の「極光」への【遡光性】の中にこそ、存在します。
【想念の浄化】さらには【潔斎】の方法論は、幾つも知っていた方が良い、というのが、私の持論です。
【光の玉手箱】には、まだまだ「未公開」の「光義」を持ついろいろな「光の御業(みわざ)」が胎蔵されていることを、御承知頂きたいと思います。
【絶対はこの現界にはない】この宇宙律を、一つここで確認しておきたいと思います。
以上、少し難しいかもしれませんが、これを理解してから、「想念の浄化」や「潔斎」に励まれると、一段とそのスピードが速くなって、「浄化」の程度も深くなってくると思います。
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