【『ひふみ神示』発祥65年目の今日と岡本天明先生の真意】
平成21年6月10日は、神典『ひふみ神示』の初発の御神示から、「65年目」の神日でした。また、今年は岡本天明先生の「47回忌」に当たりました。 この岡本天明先生が天授された『ひふみ神示』『日月神示』の出現に至る経緯を、岡本天明先生自身がお書きになられた文章と、未亡人である、岡本三典氏が書かれた文章によって、詳細をたどっていきたいと思います。 まず、岡本天明先生御自身の書かれた文章を見てみたいと思います。
【以下、引用部分です。】
【日月地神の出現】
岡本天明著(『日月地聖典』下巻 巻末「後がき」より)(昭和三十八年十月二十四日・旧九月八日発行)
【昭和十九年四月十八日、東京、原宿にあった修史協翼会で「扶乩(註・フーチ)」の実験会が行はれた。集った人々は太陽工業社長の高井是容氏、陸軍少将の小川喜一氏等十数名で、私が審神者兼司会の役をつとめたのであるが、何れも科学陣営の人々で、心灵(註・霊)現象、特にカミカカリなどについては、全然信じていなかったのであります。扶乩は御承知のように「二人が一体となって」灵(註・霊)現象を起すもので、支那では古くから御神意を伺ふ場合に行ったらしく、現在でも世界紅卍字会をはじめ、色々な結社で行って居ります。 「巫(かむなぎ)」と云ふ字は、この行事から出来たらしく、Tは乩木の形で、その両端に二人の人が居り、下の一は砂盤又は紙をかたどったものでありましょう。私がこの形式をとったのは、実験者に疑う余地を少なくしたい為でありました。 さて、最初、実験にかかったのは前記高井氏と某婦人であったが、数分後灵(註・霊)動を起し、砂盤の上に大きな文字で「天」と書記し、つづいて「ひ」「つ」「く」と書記された。多分御神名であろうと思ったので、そのことを伺ったが、それに対する返事はなかった。次に小川将軍が誰かと一組になって試みたところ今度は「日月のかみ」と書記されました。引きつづいて幾組か実験したが、何れも「ひつきの神」又は「天之日月神」としめされるだけで、他の質問に対しては御返答がなかった。しかし第一回目の実験としては、先ず先ず上出来と云わねばなりません。 ここで問題となったのは「天之日月神」なるものが果して存在するのか?下級灵(註・霊)のいたづらなのか?一寸判断に困ったわけですが、実験された人々は異常な興味を持ったらしく、神名辞典等、手あたり次第に調べたが、何等の手がかりなく、ウヤムヤに終わった次第であります。 こんな事があってから数日後、実験者の一人であった森崎鉄男氏が、平凡社発行の百科辞典の中から「天之日月神社」のあることを発見した。それによると「千葉県印旛郡公津村台方(現在の成田市台方)に延喜式内社の麻賀多神宮(ママ)があり。その末社に天之日月神社がある」と云ふことで、一応の結末がついたわけであります。 私の先輩に高田集蔵と云ふ老先生がある。五月のはじめ、千駄ヶ谷の鳩森宮に奉仕してゐる私を訪ねて下さった。先生はお酒が非常にお好きであった為め、いつもさし上げるのが例となって居た。だが、当時は敗戦直前で物資に乏しく、酒などと云ふものは絶対にお目にかかれぬ存在であったが、神社に対しては神酒として毎月少量の配給がありました。私は高田先生がそのお神酒の香をかぎつけられたのではないかと、失礼なことを考えてゐたところ「天明さん、いつもあんたに飲ませてもらってゐるのだが、今日はわしが一杯さしあげようと思って来ましたぢゃ」とのお話、よくよく伺って見ると、酒は酒でも清酒ではなくドブロクで、かなり遠い田舎迄行かねばならぬとのことでした。 私も酒には目がない方で、話は即座にまとまとり、六月の十日に出かける約束となり、用意万端ととのえて居ったところ、九日の夕方になって高田先生が来られ、ドブロクを飲ましてくれる小川さんから手紙が来て「やむない客があったのでドブロクはなくなった。あと半月位まってくれ」とのことだから、十日に行っても仕方がない。次の機会まで待ってくれ……とのお話でした。しかし私としては八幡宮は公休をとり、前日申告と云ふ厄介な手続をして御符まで求めてゐたので、今更変更するのも妙なもので、ドブロクさへあきらめるならよいのだから、兎も角も予定通りにやってみたくなり、その小川(源一郎氏健在)さん方へ行く道順を尋ねて見ました。所がどうでしょう。小川さんの家は、天之日月神社のある公津村だったのです。 私の決心はハッキリ定まった。翌十日、即ち昭和十九年六月十日に天之日月神社に参拝しました。そして、その神前で二十年ぶりに強い灵(註・霊)感を受けて自動書記現象が始まった。これが日月地神示第一巻の第一帖と第二帖であります。】
次に、岡本天明先生の未亡人の、岡本三典氏の書かれた文章から、その経緯を探ってみたいと思います。
【以下、引用部分です。】
【『岡本天明筆 一二三(ひふみ)』(上巻)】 【あとがき】より
岡本三典著述部分 (昭和五十三年五月一日(旧))発行
【昭和十九年六月十日に、画家岡本天明は、千葉県成田市台方に在る麻賀多神社の境内の、天之日津久神社に参拝しました時、突然右手血管が怒張激痛し、止むを得ずに丁度持っていた矢立を、画仙紙に当てた処、自然に手が動き出し、自動書記が始まりました。若い頃はいろいろ奇現象を体験して、つくづく霊現象が不快になり、絶対に関係を絶ったつもりでいた所へ、十数年ぶりに強力な自動書記現象を初めて体験させられたのです。自動書記とは、自分の(人間の)意志には関係なく、手が自然にうごいて宇宙意志が下ろされる事です。 之が『一二三』(ひふみ)の発端で、それからは間歇的にはありますが、約十六年間続きました。……。(以下略)】
では、昭和19年6月10日に、印旛沼のほとりの台方の麻賀多神社で、岡本天明先生「天授」された、この『ひふみ神示』第一巻「上つ巻」の第一帖と第二帖を、いわゆる【第1訳】によって見ていきたいと思います。 尚、現在市販されている『ひふみ神示』は、いわゆる【第2訳】と呼ばれているものであり、岡本天明先生が、生前「校閲」ないし「監修」されたものではありません。
【第1訳】【第1巻 上つ巻 第01帖 (001)】
【富士は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るからみたまを不断に磨いて一筋の誠を通うして呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初って二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土が上がる、外国はお土が下がる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかゝって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来るまこと(マルチョン)は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言っゐるが、そんなちよこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあ か、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾萬倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。神が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。六月の十日、ひつくのかみ。】 (校閲・岡田光興)
【第1訳】【第1巻 上つ巻 第02帖 (002)】
【親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、苦に負けてよくもこゝまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。木の根でも食うて居れ。闇のあとには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍萬倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、それまで我慢出来ない臣民沢山ある。早く まこと(マルチョン)の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うまこと(マルチョン)神ごゝろになりて呉れよ、神頼むぞよ。盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、気のついた人から、まことの神の入れものになりて呉れよ、悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、初めは辛いなれど、さきを楽しみに辛抱して呉れよ。配給は配給、統制は統制のやり方、神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこゝろ、稜威ぞ。人の智恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損ひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る。救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあるに、きかねばまだまだ痛い目をさせねばならん。冬の先が春とは限らんぞ。まこと(マルチョン)の国を八つに切って殺す悪の計画、まこと(マルチョン)の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる。六月の十日、昭和、ひつくの神。天明御苦労ぞ。】(校閲・岡田光興)
(註1)【第1訳】には、最後の「天明御苦労ぞ。」は、欠落している。但し、【第2訳】には、「てんめ御苦労ぞ」とある。それに対して、【原典日月神示】では、「てんめ五九ろウ三」(てんめごくろうぞ)とある。ここでは、文意と状況から、「てんめ」を「天明」とした。
(註2)【第1訳】では、「つ」は全て、大文字になっている。今回は、文意に沿って、音便は、小文字にした。
(註3)【第1訳】では、「マルチョン」には、読み仮名がふられていない。ここでは、「まこと」という読み仮名で統一し、括弧に(マルチョン)とした。
平成21年6月10日は、神典『ひふみ神示』の初発の御神示から、「65年目」の神日でした。また、今年は岡本天明先生の「47回忌」に当たりました。 この岡本天明先生が天授された『ひふみ神示』『日月神示』の出現に至る経緯を、岡本天明先生自身がお書きになられた文章と、未亡人である、岡本三典氏が書かれた文章によって、詳細をたどっていきたいと思います。 まず、岡本天明先生御自身の書かれた文章を見てみたいと思います。
【以下、引用部分です。】
【日月地神の出現】
岡本天明著(『日月地聖典』下巻 巻末「後がき」より)(昭和三十八年十月二十四日・旧九月八日発行)
【昭和十九年四月十八日、東京、原宿にあった修史協翼会で「扶乩(註・フーチ)」の実験会が行はれた。集った人々は太陽工業社長の高井是容氏、陸軍少将の小川喜一氏等十数名で、私が審神者兼司会の役をつとめたのであるが、何れも科学陣営の人々で、心灵(註・霊)現象、特にカミカカリなどについては、全然信じていなかったのであります。扶乩は御承知のように「二人が一体となって」灵(註・霊)現象を起すもので、支那では古くから御神意を伺ふ場合に行ったらしく、現在でも世界紅卍字会をはじめ、色々な結社で行って居ります。 「巫(かむなぎ)」と云ふ字は、この行事から出来たらしく、Tは乩木の形で、その両端に二人の人が居り、下の一は砂盤又は紙をかたどったものでありましょう。私がこの形式をとったのは、実験者に疑う余地を少なくしたい為でありました。 さて、最初、実験にかかったのは前記高井氏と某婦人であったが、数分後灵(註・霊)動を起し、砂盤の上に大きな文字で「天」と書記し、つづいて「ひ」「つ」「く」と書記された。多分御神名であろうと思ったので、そのことを伺ったが、それに対する返事はなかった。次に小川将軍が誰かと一組になって試みたところ今度は「日月のかみ」と書記されました。引きつづいて幾組か実験したが、何れも「ひつきの神」又は「天之日月神」としめされるだけで、他の質問に対しては御返答がなかった。しかし第一回目の実験としては、先ず先ず上出来と云わねばなりません。 ここで問題となったのは「天之日月神」なるものが果して存在するのか?下級灵(註・霊)のいたづらなのか?一寸判断に困ったわけですが、実験された人々は異常な興味を持ったらしく、神名辞典等、手あたり次第に調べたが、何等の手がかりなく、ウヤムヤに終わった次第であります。 こんな事があってから数日後、実験者の一人であった森崎鉄男氏が、平凡社発行の百科辞典の中から「天之日月神社」のあることを発見した。それによると「千葉県印旛郡公津村台方(現在の成田市台方)に延喜式内社の麻賀多神宮(ママ)があり。その末社に天之日月神社がある」と云ふことで、一応の結末がついたわけであります。 私の先輩に高田集蔵と云ふ老先生がある。五月のはじめ、千駄ヶ谷の鳩森宮に奉仕してゐる私を訪ねて下さった。先生はお酒が非常にお好きであった為め、いつもさし上げるのが例となって居た。だが、当時は敗戦直前で物資に乏しく、酒などと云ふものは絶対にお目にかかれぬ存在であったが、神社に対しては神酒として毎月少量の配給がありました。私は高田先生がそのお神酒の香をかぎつけられたのではないかと、失礼なことを考えてゐたところ「天明さん、いつもあんたに飲ませてもらってゐるのだが、今日はわしが一杯さしあげようと思って来ましたぢゃ」とのお話、よくよく伺って見ると、酒は酒でも清酒ではなくドブロクで、かなり遠い田舎迄行かねばならぬとのことでした。 私も酒には目がない方で、話は即座にまとまとり、六月の十日に出かける約束となり、用意万端ととのえて居ったところ、九日の夕方になって高田先生が来られ、ドブロクを飲ましてくれる小川さんから手紙が来て「やむない客があったのでドブロクはなくなった。あと半月位まってくれ」とのことだから、十日に行っても仕方がない。次の機会まで待ってくれ……とのお話でした。しかし私としては八幡宮は公休をとり、前日申告と云ふ厄介な手続をして御符まで求めてゐたので、今更変更するのも妙なもので、ドブロクさへあきらめるならよいのだから、兎も角も予定通りにやってみたくなり、その小川(源一郎氏健在)さん方へ行く道順を尋ねて見ました。所がどうでしょう。小川さんの家は、天之日月神社のある公津村だったのです。 私の決心はハッキリ定まった。翌十日、即ち昭和十九年六月十日に天之日月神社に参拝しました。そして、その神前で二十年ぶりに強い灵(註・霊)感を受けて自動書記現象が始まった。これが日月地神示第一巻の第一帖と第二帖であります。】
次に、岡本天明先生の未亡人の、岡本三典氏の書かれた文章から、その経緯を探ってみたいと思います。
【以下、引用部分です。】
【『岡本天明筆 一二三(ひふみ)』(上巻)】 【あとがき】より
岡本三典著述部分 (昭和五十三年五月一日(旧))発行
【昭和十九年六月十日に、画家岡本天明は、千葉県成田市台方に在る麻賀多神社の境内の、天之日津久神社に参拝しました時、突然右手血管が怒張激痛し、止むを得ずに丁度持っていた矢立を、画仙紙に当てた処、自然に手が動き出し、自動書記が始まりました。若い頃はいろいろ奇現象を体験して、つくづく霊現象が不快になり、絶対に関係を絶ったつもりでいた所へ、十数年ぶりに強力な自動書記現象を初めて体験させられたのです。自動書記とは、自分の(人間の)意志には関係なく、手が自然にうごいて宇宙意志が下ろされる事です。 之が『一二三』(ひふみ)の発端で、それからは間歇的にはありますが、約十六年間続きました。……。(以下略)】
では、昭和19年6月10日に、印旛沼のほとりの台方の麻賀多神社で、岡本天明先生「天授」された、この『ひふみ神示』第一巻「上つ巻」の第一帖と第二帖を、いわゆる【第1訳】によって見ていきたいと思います。 尚、現在市販されている『ひふみ神示』は、いわゆる【第2訳】と呼ばれているものであり、岡本天明先生が、生前「校閲」ないし「監修」されたものではありません。
【第1訳】【第1巻 上つ巻 第01帖 (001)】
【富士は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るからみたまを不断に磨いて一筋の誠を通うして呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初って二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土が上がる、外国はお土が下がる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかゝって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来るまこと(マルチョン)は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言っゐるが、そんなちよこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあ か、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾萬倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。神が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。六月の十日、ひつくのかみ。】 (校閲・岡田光興)
【第1訳】【第1巻 上つ巻 第02帖 (002)】
【親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、苦に負けてよくもこゝまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。木の根でも食うて居れ。闇のあとには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍萬倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、それまで我慢出来ない臣民沢山ある。早く まこと(マルチョン)の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うまこと(マルチョン)神ごゝろになりて呉れよ、神頼むぞよ。盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、気のついた人から、まことの神の入れものになりて呉れよ、悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、初めは辛いなれど、さきを楽しみに辛抱して呉れよ。配給は配給、統制は統制のやり方、神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこゝろ、稜威ぞ。人の智恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損ひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る。救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあるに、きかねばまだまだ痛い目をさせねばならん。冬の先が春とは限らんぞ。まこと(マルチョン)の国を八つに切って殺す悪の計画、まこと(マルチョン)の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる。六月の十日、昭和、ひつくの神。天明御苦労ぞ。】(校閲・岡田光興)
(註1)【第1訳】には、最後の「天明御苦労ぞ。」は、欠落している。但し、【第2訳】には、「てんめ御苦労ぞ」とある。それに対して、【原典日月神示】では、「てんめ五九ろウ三」(てんめごくろうぞ)とある。ここでは、文意と状況から、「てんめ」を「天明」とした。
(註2)【第1訳】では、「つ」は全て、大文字になっている。今回は、文意に沿って、音便は、小文字にした。
(註3)【第1訳】では、「マルチョン」には、読み仮名がふられていない。ここでは、「まこと」という読み仮名で統一し、括弧に(マルチョン)とした。
【写真】は、上が、平成21年6月10日、天之日津久神社に降りた神光。中が、新装された社名碑と天之日津久神社。下が、麻賀多神社本殿。(いづれも、平成21年6月10日撮影。撮影者 岡田光興)
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