2009年6月26日金曜日

日月神示における二元性と三元性







【日月神示における二元性と三元性】

神典「日月神示」においての一つの大きな問題として、「二元性と三元性」の問題があります。

つまり、2は、二元性、火と水、陰陽、天地、両義などの範疇性です。

それに対して、3は三元性、天地人、日月地(くに)、父と子と精霊などです。

これを5という中心数がその中に2と3を内包し、さらなる「完全性」を表出します。

5は、九星でも、その中心数とされ、1から9までの数の中での中心数でもあります。

5についてですが、日月神示と岡本天明先生は、その玄義性について、いろいろな所で説いています。

中2人、外3人、2は二元性、火と水の火水(神)の二元性。

3は、三元性、日月地(くに)の、大日月地(くに)太神の三元性にも帰趨します。

グノーシス的にも、Vサインが、中の2と外の3を現すとも言われています。このことから、23の数を「特異数」として見る考えもあります。

5は、中心数として、固定化されますが、その内実は2と3に別れ、それそれが、2の両義性、3の完成性にさらに還元されると考えられます。
その奥には、根源性としてのス、マルチョンが内包されていると考えます。

50と49の関係も、筮竹の立て方であり、50で完成し49で動くとされています。残された1本は、チョンに当たる訳です。

よく、神典「日月神示」について、地が抜けているという方がいますが、岡本天明先生は、自らの言葉で、「日月神示」という名称を用いたことはありませんでした。

「一二三」の名称が、その真義を表していると思います。

一と二が、弥栄生成化育して、三になる。

その意味で、「日月」の二元性と、「日月地(くに)」の三元性は、宇宙や神、神性というものの、見方の位相の差によるものなのです。

「日月」ととらえた場合、その二元性によって、静的な物の捉え方が示されます。

それに対して、「日月地(くに)」ととらえたり、表現した場合には、物の動的な位相が示されます。

さらに三元性は、完成数としての意味も持ちます。

したがって、日月の二元性、日月地の三元性は、いずれも「真義」をその中に内包し、どちらが良いということでもないのです。

それ故、神典「日月神示」は、「日月地(くに)神示」でもあり、「大日月地(くに)太(おお)神神示」でもあるのです。

御神示や神典は、誰が出したかとか、どの神示神典しか意味がないとか、どの神示はすでに終わったとか、どの神示が縦で、どの神示が横だとか、そのレベルのことが書かれているものは、あまり魂にとって役に立ちません。

その中に、宇宙の真義を自らの魂が感得する神機となる言葉が織り込められているものが、本当の神様からの言葉だと思います。

「救人」の時代は終わりました。
「救世」の時代も終わりに向かおうとしています。
これからは、 「神幽現一体大和楽の光の国実現」の時代なのです。

そのためには、「祓い」すなわち、「めぐり」の「浄化」が、魂の次元まで重要になってきています。

そして、人間関係のみではなく、森羅万象に対する「ひとしさ」の認識・「共感」がなされる時代が求められています。これは、「まつり合わせ」・「まつり」・「真釣り」として表現されます。

そしてさらに一歩進んで、人間関係、森羅万象、宇宙全体に対する「関わり」を「進化」・「神化」・「光化」させることが、「弥栄(やさか・いやさか)」です。

その意味で、人間関係や、森羅万象、宇宙を「二元」として静的に理解することも、その実相認識としては重要ですし、さらに発展させ「三元」として動的に理解することも、私たちにとっては重要なことであると考えられるのです。

宇宙の実相は、複次的に観相し、立体的に思考してこそ、その奥義に到達できるものなのです。

現在、「癒し」で大変人気のある 「ホ・オポノポノ」の癒しのプロセスが、とても、 日月神示にある「祓い」→「真釣り」→「弥栄」の三大実践主義と共通性のあることが興味深いのです。

私たちは、至光の光の受容される「光器」である。過去、現在、未来の中で、永遠に光り続ける存在である。
そのためには、ヒューレン博士の言う、潜在意識の中にある「過去」を、常に清め続けなければならない、と考えます。

さらに、ヒューレン博士の言う、「100%責任を持つ」とは、私たちが、至光の光の「光器」であることの自覚、即ち「光覚」を持つことだと思います。それは、空間の中で、さらに、時間の中で、さらには、神幽現という、次元の中で、「生かされている」自分に気付く光のプロセスでもあります。

実際に、魂の光相の問題が理解出来てきますと、「祈り」の大切さが、改めて認識されます。
そしてその祈りの対象が、自らの内なる最も至光の存在に対してなされることが、気付かされます。これが、私の言う「自光拝」です。

I love you.という言葉は、どうも日本人にはなじめないという方がいますが、私は、Iを「愛」そして「天意(あい)」と解しています。
つまり、天はあなたを愛していますよ。あなたは、天の意思を体現するために今、ここにいるのてすよ。

このように、考えています。I love you.は、私とあなたの垣根をなくす魔法の言葉です。この言葉に相当するものは、確かに日本語にはありません。それは、日本人は元々、自他の区別の意識的に希薄な「意識的共同性」をその根底に持っているからです。

しかし、近代の日本人は、それらを忘れ、共同性よりも、自我の突出性にその価値を見出してきました。

私たちは、天意(あい)に生きることの大切さを、改めて考え直したいものです。
上の写真が、麻賀多神社の「大奥山」時代の、 岡本天明先生。
中央が、知多半島の武豊市にある、「玉鉾神社」に秘蔵されている、 「マルチョン石」。

下の写真は、ハワイの「フナ」に伝わる 「カナロアの眼」。チャーチワードのムー大陸伝説のムーのシンボルマークの原型ではないかと考えられる。数霊的秘教性を持ちます。

上の写真にある、この御神殿は、岐阜の「大奥山」時代を経て、北伊勢至恩郷へと移築されましたが、残念になことに、10年近く前に、焚き火の不始末によって消失してしまいました。

2013年は、岡本天明先生没後50年に当たる年でもあります。
その最後の神示群は、「五十(いせ)黙示録」と名付けられ、昭和36年(みろく)に天授されました。

奇しくも、2013年は、伊勢神宮の御遷宮の年にも当たります。

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