2009年6月30日火曜日

人(ひと)から〇九十(まこと)へ。そして〇光人(まこと)へ







【人(ひと)から〇九十(まこと)へ。そして〇光人(まこと)へ】

【第23巻 海の巻 第14帖 (506) (昭和22年8月23日)】

何も分らん枝葉の神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、早う其の神と共に此処へ参りて、マコトの言(こと)を聞いて誠に早う立ち返りて下されよ、 九十(マコト)とは 一二三四五六七八九十であるぞ、一二三四五六七八かくれてゐるのざぞ。

【第31巻 月光の巻 第45帖 (832) (昭和33年12月25日~34年3月2日)】

マコトに祈れと申してあろう。マコトとは (マ)123456789(コ)10(ト)のことと申してあろう。只心でゐのるばかりでは、自分で自分をだますこととなるのぢゃ。自分をいつわることは神をいつわることとなるのぢゃ。マコトでゐのれば何事もスラリスラリとかなふ結構な世ぞ。

【五十(いせ)黙示録 第5巻 極めの巻 第14帖 (092)】(昭和36年8月5日)

正しくないものが正しい方に従はねばならんと人民申して御座るなれど、正とか不正とか申す平面的衣を早うぬいで下されよ。マコトを衣として下されよ、マコトを衣にするには心がマコトとなりなりて、マコトの肉体とならねばならん、マコトとは数(かず)ぢゃ、言(こと)ぢゃ、色ぢゃ、その配列、順序、法則ぞ。


【五十(いせ)黙示録 第6巻 至恩の巻 第15帖 (113)】(昭和36年9月1日)

神の申すことは一分一厘違はんのであるぞ、今度言ふことを聞かねば大変な気の毒となるぞ、地(智)の下になって了ふのであるぞ、12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910が【マコト】と申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の五ぢゃ、二二(ふじ)は晴れたり日本晴れぞ、判りたか。

【五十(いせ)黙示録 補巻(第7巻) 紫金の巻 第03帖 (133)】(昭和36年)

 伊豆幣帛(いづぬさ)を 都幣帛(とぬさ)に結び 岩戸ひらきてし。

ウヨウヨしてゐる霊かかりにまだ、だまされて御座る人民多いのう、何と申したら判るのであるか、奇跡を求めたり、われよしのおかげを求めたり、下級な動物のイレモノとなってゐるから、囚われてゐるから、だまされるのぢゃ、霊媒の行ひをよく見ればすぐ判るでないか。早うめさめよ、因縁とは申しながら、かあいそうなからくどう申して聞かせてゐるのであるぞ、マコトの道にかへれよ、マコトとは 一二三四五六七八九十と申してあろう、そのうらは十九八七六五四三二一 で、合せて二十二であるぞ、二二が真理と知らしてあろう、二二が富士と申してあろうが、まだ判らんか。

これからは、「アーティスト系」の方々が、「神示系」の方々と、深く交流する年になると感じます。
彼ら「アーティスト系」の方々は、場所や時間を「意識的」に操り、私たち、「日常性」の中に、逼塞(ひっそく)している人間たちを、「意識の荒野」に連れ出してくれます。
人間は、案外、無自覚的に、自分の中に「めぐり」を形成しています。
それが、他と触発される事で、「開放」されるのだと思います。
その「開放」の触媒が、土地、神磁場だったり、ある時期、時間だったり、そして、一番「開放」されるのが、「人間」との出会いです。

ロシアの秘教的神秘主義者、G・I・グルジェフの言う「機械的人間」とは、想念の「めぐり」によって、自らの意識が、狭い「身体内」で「循環」してしまっている人間ではないでしょうか。

人が、霊止(ひと)、そして〇九十(まこと)となるためには、その人間が、〇九十(まこと)に出会うことが必要です。
確かに、〇九十(まこと)は、自分の裡に存在するものですが、それを引き出す「触媒」の様な存在が、すでに現界には沢山、存在します。
その意味で、〇九十(まこと)とは、「機械的人間」を、「真の人間」へと、さらには、「人間」を「霊止(ひと)」へと、そして、〇九十(まこと)へと「昇華」させる「触媒」であると私は、考えています。

【光の触媒としての自己の創出】。

これが、「光相転位(ソウルアセンション)」の神義ではないでしょうか。
大切なのは、多くのものに「触れて」みることです。
その中には、良いものも、悪いものもあると思います。
しかし、敢えてそれらに「触れてみる」勇気が必要な時代だと思います。

「日月神示」を読むことは、その意味でより「触媒」的な「触れあい」の「機会」となると思います。

「三千人の足場」という御神示が日月神示」の中にはあります。それは、この「日月神示」に集った方々の「触れ会い」への想いが、現実の中に「結晶」した「場」のことです。

「アーティスト」たちは、現実社会の中で、すでに「触媒」として活動している人たちです。
彼らの活動と、「共働」しながら、新たなる「集い」のあり方を、是非模索していってもらいたいものです。
それは、この日月神示に御神縁のある方々なら出来るはずです。
何故なら、この「日月神示」に集う方々こそ、「光の器(うつわ)」としての「光縁」を持った方々なのですから。

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