【4月7日は、岡本天明先生の48回目の御命日でした。】
岡本天明先生は、1897年(明治30年)12月4日に生誕され、1963年(昭和38年)4月7日に神上がられました。
その間に、1944年(昭和19年)6月10日の、千葉県の現成田市の台方の麻賀多神社の摂社「天之日津久神社」の御前で、ひふみ神示の「初発の神示」を天授されました。そして、その「大奥山」即ち、太神様の御座所を、東京の代々木八幡、玉川学園前、麻賀多神社の側、そして、岐阜の本巣村、北伊勢至恩郷と移し、1963年(昭和38年)4月7日に神上がられたのです。
この1963年(昭和38年)4月7日から、本年で、48年が経過したことになります。
この「48」という数霊は、「いろは48」という数霊でもあります。
この「いろは48」は、ひふみ神示では、「母の数」とされ、「ひふみ47」の「父の数」と「あなない」、「天と地」、「陰と陽」の結びを為すものであります。
その意味で、今年は「母」、そして「大地」と関係の深い年柄とも言えます。
この大切な神日に、「ひふみ神示の理解の方向性」について、少し考えてみたいと思います。
まず、第1の方向性として、ひふみ神示の内容を、原文のまま、読者に提示する方向性があります。これは、一般の人が、ひふみに触れる、一つのきっかけとなる方向性だと考えています。
これに対して、もう一つの第2の方向性として、ひふみ神示の内容を頭に入れながら、その先の思考を提示する方向性があると思います。
この方向性は、一度、ひふみ神示を、体系的に理解していないと不可能な事です。
ひふみ神示と言うと、菜食、ひふみ祝詞、富士は晴れたり日本晴れ、程度の事しか思い浮かばない人たちが大半の中で、体系的な内容理解をされている方は、なかなかいないのが現実です。
いろいろと、現実的には問題も多かったですが、岡本三典婦人も、そう言った意味では、お筆・ひふみ神示を、良く御存知でした。
その事に関して思い出されるのは、岡本三典御夫人は、質問があると、それに対しては、何の巻の何の帖に書いてあるので、そこを読みなさい、などと良く言っておられたのを記憶しています。
その意味で、常にお筆と共にある生活でした。
その事に対しては、私たち、後を追う者たちも、大いに見習わなければならないと思います。お筆に真向かう姿勢と、自分が天明先生にお筆を託されたと言う自負は、恐らく誰にも負けないものがあったと感じます。
私たちも、三典御婦人のその気概だけは、是非とも継承すべきと感じます。
私の方法論は、ひふみ神示の想定する世界を地上に顕現させる事を、最重要課題としています。従ってそのひふみ神示を、現実に人に読ませる方向性とは少し違います。
言うなれば、私の方法論とは、岡本天明先生が、現代に生きておられたら、一体何をなされるだろうという観点からの動きとも言えます。
これを、私の直接の師であり、岡本天明を北伊勢に招聘した中心的人物であった、武市瑞月先生は、御経綸と言う言葉で良く表現されていました。
御経綸とは、この大宇宙の主宰神の太神様の御計画と言えるものです。
ユニヴァーサル・プランとも言えます。
この「光の指標」を持たずに、ひふみ神示を読むと、むしろ枝葉末節の部分が、その本質的部分に覆い隠されてしまいます。
この方向性の先にある「御経綸」、即ちこの大宇宙の主宰神の太神様の御計画・ユニヴァーサル・プランは、「ひふみ神示の体系的理解」を経て初めて、理解可能なものであることを改めて認識する必要があると感じる今日この頃です。
また、2010年4月7日は、インドネシアのスマトラ沖では、M7.8の地震も発生しました。
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2716304/5578870
さらに、この4月7日には、日本の神話時代からの「謎」を秘めた、出雲の美保関の美保神社での「青柴垣(あおふしがき)神事」も、斎行されました。
この御神事は、一年間の潔斎を経た神事の主役となる当屋(とうや)と言われる氏子の代表が、一年交替でこの御神事の主役(大国主神の御子神の事代主神とその妻神の御役)となり、前日から美保神社のお隠れ殿に籠もって物忌潔斎に入り断食、神がかった状態で当日にのぞみます。
その神義も、大変興味深いものがあり、地元の方によれば、この御神事自体が、一種の「太占(ふとまに)」即ち、日本、世界の今年の趨勢を占うものであると言われています。
果たして、本年の「青柴垣(あおふしがき)神事」は、滞りなく斎行されたのでしょうか。大変、興味深い所です。
【2010年・御船に乗り安全祈願・「国譲り」ちなみ青柴垣神事 美保関】
『ゆっくりと漁港に繰り出す御船(松江市美保関町で) 高天原から出雲の国を譲るよう迫られた大国主神が息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に相談したという国譲り神話にちなむ、美保神社の青柴垣(あおふしがき)神事が7日、松江市美保関町の美保関漁港などで繰り広げられ、氏子たちが無病息災や海の安全などを祈願した。
約350年以上前から続く神事で、今年の神主を務める当屋らの前にさい銭を納めるなどした後、氏子ら約100人が美保関漁港へ移動。4本の柱に幕を張り巡らせ、青柴を表すさかきや、赤や黄など色鮮やかなのぼりを掲げた御船(みせん)2隻に乗り込み、太鼓や笛を鳴らす神楽船を引き連れ、沖合約100メートルを往復した。
鳥取県米子市の無職松本典己さん(73)は「ゆっくりと船が沖合に出て戻って来る様子に、神秘的な雰囲気を感じた」と話していた。』
(2010年4月8日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/news/20100407-OYT8T01377.htm
【「青柴垣(あおふしがき)神事」のyoutube】
http://www.youtube.com/watch?v=n_TFpIXR_rw
岡本天明先生は、1897年(明治30年)12月4日に生誕され、1963年(昭和38年)4月7日に神上がられました。
その間に、1944年(昭和19年)6月10日の、千葉県の現成田市の台方の麻賀多神社の摂社「天之日津久神社」の御前で、ひふみ神示の「初発の神示」を天授されました。そして、その「大奥山」即ち、太神様の御座所を、東京の代々木八幡、玉川学園前、麻賀多神社の側、そして、岐阜の本巣村、北伊勢至恩郷と移し、1963年(昭和38年)4月7日に神上がられたのです。
この1963年(昭和38年)4月7日から、本年で、48年が経過したことになります。
この「48」という数霊は、「いろは48」という数霊でもあります。
この「いろは48」は、ひふみ神示では、「母の数」とされ、「ひふみ47」の「父の数」と「あなない」、「天と地」、「陰と陽」の結びを為すものであります。
その意味で、今年は「母」、そして「大地」と関係の深い年柄とも言えます。
この大切な神日に、「ひふみ神示の理解の方向性」について、少し考えてみたいと思います。
まず、第1の方向性として、ひふみ神示の内容を、原文のまま、読者に提示する方向性があります。これは、一般の人が、ひふみに触れる、一つのきっかけとなる方向性だと考えています。
これに対して、もう一つの第2の方向性として、ひふみ神示の内容を頭に入れながら、その先の思考を提示する方向性があると思います。
この方向性は、一度、ひふみ神示を、体系的に理解していないと不可能な事です。
ひふみ神示と言うと、菜食、ひふみ祝詞、富士は晴れたり日本晴れ、程度の事しか思い浮かばない人たちが大半の中で、体系的な内容理解をされている方は、なかなかいないのが現実です。
いろいろと、現実的には問題も多かったですが、岡本三典婦人も、そう言った意味では、お筆・ひふみ神示を、良く御存知でした。
その事に関して思い出されるのは、岡本三典御夫人は、質問があると、それに対しては、何の巻の何の帖に書いてあるので、そこを読みなさい、などと良く言っておられたのを記憶しています。
その意味で、常にお筆と共にある生活でした。
その事に対しては、私たち、後を追う者たちも、大いに見習わなければならないと思います。お筆に真向かう姿勢と、自分が天明先生にお筆を託されたと言う自負は、恐らく誰にも負けないものがあったと感じます。
私たちも、三典御婦人のその気概だけは、是非とも継承すべきと感じます。
私の方法論は、ひふみ神示の想定する世界を地上に顕現させる事を、最重要課題としています。従ってそのひふみ神示を、現実に人に読ませる方向性とは少し違います。
言うなれば、私の方法論とは、岡本天明先生が、現代に生きておられたら、一体何をなされるだろうという観点からの動きとも言えます。
これを、私の直接の師であり、岡本天明を北伊勢に招聘した中心的人物であった、武市瑞月先生は、御経綸と言う言葉で良く表現されていました。
御経綸とは、この大宇宙の主宰神の太神様の御計画と言えるものです。
ユニヴァーサル・プランとも言えます。
この「光の指標」を持たずに、ひふみ神示を読むと、むしろ枝葉末節の部分が、その本質的部分に覆い隠されてしまいます。
この方向性の先にある「御経綸」、即ちこの大宇宙の主宰神の太神様の御計画・ユニヴァーサル・プランは、「ひふみ神示の体系的理解」を経て初めて、理解可能なものであることを改めて認識する必要があると感じる今日この頃です。
また、2010年4月7日は、インドネシアのスマトラ沖では、M7.8の地震も発生しました。
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2716304/5578870
さらに、この4月7日には、日本の神話時代からの「謎」を秘めた、出雲の美保関の美保神社での「青柴垣(あおふしがき)神事」も、斎行されました。
この御神事は、一年間の潔斎を経た神事の主役となる当屋(とうや)と言われる氏子の代表が、一年交替でこの御神事の主役(大国主神の御子神の事代主神とその妻神の御役)となり、前日から美保神社のお隠れ殿に籠もって物忌潔斎に入り断食、神がかった状態で当日にのぞみます。
その神義も、大変興味深いものがあり、地元の方によれば、この御神事自体が、一種の「太占(ふとまに)」即ち、日本、世界の今年の趨勢を占うものであると言われています。
果たして、本年の「青柴垣(あおふしがき)神事」は、滞りなく斎行されたのでしょうか。大変、興味深い所です。
【2010年・御船に乗り安全祈願・「国譲り」ちなみ青柴垣神事 美保関】
『ゆっくりと漁港に繰り出す御船(松江市美保関町で) 高天原から出雲の国を譲るよう迫られた大国主神が息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に相談したという国譲り神話にちなむ、美保神社の青柴垣(あおふしがき)神事が7日、松江市美保関町の美保関漁港などで繰り広げられ、氏子たちが無病息災や海の安全などを祈願した。
約350年以上前から続く神事で、今年の神主を務める当屋らの前にさい銭を納めるなどした後、氏子ら約100人が美保関漁港へ移動。4本の柱に幕を張り巡らせ、青柴を表すさかきや、赤や黄など色鮮やかなのぼりを掲げた御船(みせん)2隻に乗り込み、太鼓や笛を鳴らす神楽船を引き連れ、沖合約100メートルを往復した。
鳥取県米子市の無職松本典己さん(73)は「ゆっくりと船が沖合に出て戻って来る様子に、神秘的な雰囲気を感じた」と話していた。』
(2010年4月8日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/news/20100407-OYT8T01377.htm
【「青柴垣(あおふしがき)神事」のyoutube】
http://www.youtube.com/watch?v=n_TFpIXR_rw
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